もう少し眠っていてもいいと 誰かが低い声で囁くのが 薄暗い夢の中でもわかる 本当にもう少しここで 眠っていてもいいのですか 念を押して訊ねてみると その人は猫を撫でるような声で 眠っていてもいいんだよと答えてくれる 不安になったので少し目を開けて 隙間を手で探っていくと 生ぬるい糠床に指が触れる感じがあり おそるおそる押し込んでみると 意外なほどにずぶずぶと沈んでいき その感触に当惑しているうちに もう助からなくなってしまうのだ きゅうりやにんじん 大根やその他わけのわからないもの 皆とうの昔に古漬であって そのどれにも 赤い箸が突き刺さっている
男が消えたあと 庭に不思議な植物が生えてきた ひとつひとつの葉がのっぺりと丸く それが重なって層をなし 傍目には大きな球体のように見える つやのない葉は太陽の光を反射せず どこか薄墨色でぼやけた表情をしている すぐにでも切って捨ててやろうと考えていたのに なんだかもったいないような気もして 延ばし延ばしにするうちに手に負えなくなった 火をつけてやろうかとも考えたが 火事になってしまいそうだ 今日また庭に洗濯物を干しながら 思案にくれてその姿を眺めていると ふいに葉叢の奥のほうに 無数の鈴状の花が咲いているのを見つけた あれから長い時間が過ぎていたのだと この時はじめて気がついた
包丁がなまってうまく切れず 庭に出て塀でごりごり研いできた 落ち葉や新聞紙で試すとよく切れる 刃先をゆっくりと撫でてみたい気もして それはぐっとこらえて戻ると まな板の上にもう一本、包丁が置いてある それもなまってしまっているようなので もう一度庭で研いで台所に戻る するともう一本、なまった包丁が置いてある そんなことを何度も繰り返していて 徐々に暗くなっていく台所に わたしの居場所はない 尖った包丁だけが増えていく
つまらない思いを抱えて つまらないつまらないと日々を送るのが これから死ぬまで続くのだと 濡れた服を脱ぎながら真実に思えてくる 拾ってきた枯れ枝を瓶に挿し 部屋の中に小さな林を作ってやろうと それだけを一心に考えていると 今生きていることさえ嘘のようで 日が暮れて眺める窓に 車のライトが通り過ぎて 枝がざわざわと揺れ 枝がざわざわと海を呼んでいる
懐で古銭をじゃりじゃりさせながら 暗い大通りを歩いていく 多くの脇道が横に伸びていて かつてここを一緒に歩いた人が 上から見ると「馬」の字になっている と教えてくれた町 何百年も前に大火のせいで 見渡す限りの焼け野原に変わったという その大火の前日に 大通りを一頭の狂馬が駆けた 町人、武士、子供、乞食などなど 多くの者がそれを見送った ようやく火が消えて落ち着いた頃になって あの馬は災厄の前触れだったのだと まことしやかに語られた 今その大通りを 懐で古銭をじゃりじゃりさせながら 北から南へ歩いていく 幻の狂馬が駆けた 馬の字の町
長いこと逆さまに埋められていたので いまだに上下感覚がおかしいのです と笑いながら帰っていった人のあとで かすかに揺れる灯明を吹き消して 庭に出て晴れた空を眺める 空が地面で地面が空とは 自分にはなかなか想像がつかないことで 会話の余韻が胸のうちを流れて 風にそよがせていた洗濯物が わたしたちの吊られている様を見てくれと 自慢げに言っているような気もして なんだか鼻白むような 切ないような気持ちがしてきて ふっと吐いた息が ひととき青く煙って消えた
廃屋になっているのに 薔薇の蔓が家中を取り巻いて 賑やかに花を咲かせているのでしょう 公園では透明な子どもたちが 鎖の浮き出たぶらんこで遊びながら 漂う香りをぱくぱく食べています 通り雨がさっと街を濡らし 空に大きな虹を作りました
木の高いところに骨がかかっていて 鳥が面白くなさそうについばんでいる 手にしたほうきでつついて落とすと それは乾いて白い 夜中に目が覚めて 台所で水を飲んで寝に戻る さっき上ってきた坂を降りて 奥まった界隈の裏庭に入る 骨はもう人の形をして ぼろ布を着てうろうろ歩いている 動き回ると関節が外れるよと言っても 自由に歩けるのが嬉しいのか いつまでもやめない 招かれて茶など飲んでいる間に 骨の姿も見えなくなった 主人によると由来がまったくわからず 以前からこの家にあった骨とのことで いつか供養してやらねばと思いながら 家が没落してそれどころではなくなった 自分も急に死んでしまって 幸いにも縁故の者のおかげで 墓に入ることだけはできましたという 穏やかに話してくれたが それなりの苦労はあったのだろう しばらく歩くと川に橋がかかり 岸辺にぼろ布をまとった骨の姿がある 水鳥のように頭を浅瀬に突っ込んで 魚か虫かを捕まえるのに熱心なようだ なんとはなしに眺めていると どうやらそれは生き物を捕まえているのではなく 円い石を口で拾い集めて 川沿いに積み上げているらしい いくつもいくつも こんもりとした小山がきれいに並んでいる そこでようやく目が覚める 窓の外は薄曇りでほんやりと暗く 妙に静かな朝である 夢の脈絡を整理しながら 自分で自分を供養するようなことが どの世の中にもあるのだと両手で顔をこすり しばらくそのままでいる 一羽の鳥が陽の光を浴びて 木立の上を飛んでいく