親知らずが生えてきているらしい。レントゲン写真には横向きに生えた奥歯が 白く輝いていて、このまま処置をせずに伸びれば隣の歯に突き当たってしまう のが容易に想像できる。今のうちに抜いておいたほうがいいだろうという医師 の歯並びがとてもきれいだ。悪くないかもしれない。 * * * 誰もいないのにシャワーから熱い湯が流れ続けている。 * * * 窓際の観葉植物は枯れ、乾いたひとつひとつの葉が平たく張り付いている。最 近、目が覚めると口の中が犬の毛でいっぱいだった。 * * * 最初からこうなることはわかっていたのだけれど、いざその時が来ると立ちす くんでしまう。目眩がして足元もおぼつかない。駅からついてきた幽霊が不思 議そうに見守っているのがなんとなく感じられる。ポケットに突っ込んだ手に 針が刺さって、そこから冷たい汁が止めどなく溢れ出る。 * * * 箪笥の裏、床下、排水口の先、いたるところに人形が置かれてある。物干し竿 に吊られて、首を折り曲げられて、針山にされて、どの人形も両目を潰されて 嬉しそうだ。まるで人形として仮初の生を受けたことが幸せでたまらないといっ た風に微笑んで。 * * * 抜けた歯がどんどん口に溜まってくるので、枕元に用意した洗面器に吐き出す。 ぽろぽろととうもろこしの粒でも吐いてるみたいだ。何度かそれを繰り返して いるうちに眠りが深くなって、気づくと資料館の中庭を上から覗く視点が始ま る。あの緑の草むらの陰では無数のトカゲが息づいているだろう。 * * * 蝶に蜜をかけてやりたいな。バケツに溢れるくらいの蜜の中に何匹も沈んで、 陽の光が差し込んで影絵のようで、そのまま庭に置いておくと虫が寄ってきて 真っ黒になってしまうだろうな。(それもいいな。)(夢みたいだな。) * * * キリンは目に涙を浮かべて、深さのある池をゆっくり歩き回るとそのたびに波 が押し寄せる。平屋建ての校舎はマッチ箱を踏み潰したみたいにぺちゃんこに 潰れている。小さな悪夢の一片がうめきながら空を飛び回る。それにつれて折 れ曲がるキリンの首はメトロノームのよう。 * * * ラウンジの床は蜂の死骸で埋め尽くされて足の踏み場もないほどだ。 * * * 膝のあたりまで泥水が来ているので歩くのも慎重になる。自転車の残骸や倒れ た自販機をやっとのことでまたいで、図書館のほうへやってきた。途中、水面 を小さな紫色の花が埋めた小道を折れると、水没してしまった地下鉄への出入 り口は板で塞がれて、そのあたり一面は髪の毛に似た藻で覆われて全然通れな くなっていた。 * * * 昼も夜も同じ靴を履いてきてしまったと考えながら話を聞いていた。植物は暗 闇で眺めるべきではないかと熱弁している人。ひまわり、八つ手、モンステラ には人間に似た感情があり、よくよく観察しているとそれがわかるようになる とか。とうに死んだはずのその人は嬉しそうに華やいで、薄暗い室内には草の 匂いが立ち籠めている。 * * * モノクロームの画面から常に逸脱していくものたち。それは目の端を横切って 細長い体をシーツに潜り込ませる。布団を剥いだそこには影も形もなくて、あ るいは錯覚かとも思うが、印象だけが灰色の壁に白線として刻まれる。 * * * 詩集に挟んだ青いカード。 * * * 空虚を埋めていくということ。 * * * 抜いたあとが大きな穴になってそこに血の塊が被さっているようだ。舌で触る とぷよぷよしている。痛みは大分やわらいだがどうしても気になって何度も触っ てしまう。これではいけないと思って、気を紛らすために停留所脇の草むらに 目をやる。今しがた、白い蛇のようなものが日向を逃げていった。