les ombres 1

風船

誰もいないのに

不眠

夜釣り

しだ

道行き

気がかり

牛の首

風船

部屋の隅に風船が浮かんでいる
白い風船だ
暗い片隅でそれはぼうっと光る
雨の日や
嵐の日には
表面に顔が浮かぶこともあるが
ぼやけた表情ではっきりしない
時折、夜中に目を覚ますと
わたしの頭の上に移動していて
よだれのような糸を垂らしている
手を払って邪険にすると
朝には部屋の隅に戻っている


子供の頃、森に捨ててきた犬が
数十年かけて戻ってくる
窓の外で鳴いている
ここをあけてくれよう
あけてやらない
もし窓を開けたが最後
わたしのほうが犬になって
寂しい荒野をさまようことになるからだ
そういうことがわかってもなお
いや、そういうことがわかるからこそ
今日も犬を捨てに森に行く
森は犬でいっぱいだ


誰もいないのに

床に寝そべって本を読んでいて
なんとはなしにうしろが気になる
真っ黒いもやのような男が
扉の陰に立っている気がして
おそるおそる振り返ってみても
当然誰もいない
誰もいないのに
誰かが扉の陰に立って
包丁を手にしている気がする
鋭い刃を振りかぶって
首にずぶりと刺してくる気がする
誰もいないのに
この家にはもうずっと
わたしさえもいないのに
誰かが床に転がって
首を刺されて死んでいる気がする


不眠

小さな子供たちが
毎夜、枕の中で騒ぎ立てる
オキテ、ハヤクオキテ
耳に温かい息がかかって
あまりに生臭いものだから
頭を枕に打ちつけて
子供たちを潰す
何度も何度も打ちつけて
そうやって苦しい夜を過ごす
朝、新聞配達が来る頃にようやく
枕は静かになるけれど
今度は夢の中
大仏ほどの大きさの赤子に
ぎゅっと押し潰されて
とても寝苦しい思いをする


夜釣り

魚を釣りに行きましょうと
手を引かれて行く
氷のように冷たい手だった
連れてこられた川辺には
沢山の人がすでに釣りを始めていて
思い思いに竿を上げ下げしている
自分もどこからか
骨のような細い竿を差し出され
これであなたの両親を釣るのです
この、深みのところにいますから
そう言われるままに糸を垂れて
釣れるのを待っている
波ひとつない川面を見ていると
ひとりでに涙がこぼれてきて
父と母は今どのあたりにいるのだろうか
濡れた頬がただただ寒かった


しだ

しだをもらった
めずらしい種類のものだというので
鉢を新調して植えつけてやる
さほどうまくはない手つきで
子供の手指ほどの根を土に埋めて
ひとまず一鉢を仕立てる
それを枕辺に置いて眺めると
なるほど立派な植物に思えてくる
これは大したものを手に入れたと
鼻を高くするうちに眠りに落ちこみ
夢の葉ごしに見える夜空には
目玉のような星々が瞬き
はるか彼方まで続く大森林を
うっとりと見下ろしていた


道行き

妙に白茶けた道を
道というより橋かもしれないが
いつの頃からか歩き続けている
疲れて立ち止まったとしても
死んだ馬が頭を押しつけてくるので
休むこともできず
馬の冷たい鼻息が気に障る
なにもこのあり方が人生の喩えだとか
馬が実は死神だとか言うつもりはない
歩いている自分と馬が
互いに憎しみ合い
しかし奇妙な利害の一致を通して
同じ方向へと進んでいくのが
古い鏡の面に浮かんでいる
それだけのこと


気がかり

夕方過ぎに家を出て
魚を買って戻る途中に
なにか気がかりがあるように思う
何だったか思い出そうとして
何のことだったかわからなくて
吹きつけてくる風が
肩のあたりにうすら寒い
手提げ袋の中では
包みから血が滲みはじめ
角の部分に溜まっていく
買い忘れはないはずだし
やるべきことは片付けてある
しかし恐ろしいものはいつも
死角から猫のように飛び出してくる
人間の形をした袋の中で
こぼれるものを感じながら
そう思う


歯がぽろぽろ抜け落ちる夢を見る
朝、畳に散乱する歯を集め
封筒に収めていく
もういくつも仏間にしまってある
いずれ程よい時を見計らって
庭の空いた箇所に撒いてやると
毒草ばかりが生えてくるだろう
鳥はその実をついばんで飛び
毒は町中に広がっていくだろう
悪意を悪意として肯う人が
毒によって次々と生まれ落ちるだろう


牛の首

納戸に牛の首の男たちがいて
いつ見ても
輪になって下を向いている
一体何だろうと思って
家族に訊ねてみると
別に気にしなくていいんだという
皆に了解されているのならば
害をなすこともないのだろうが
やはり気になるものは気になる
飲食も睡眠も必要としない様子で
はたして本当に生きているのだろうか
冬の夜にはじっと俯いたまま
青白く光っていることもある
話しかけたことはない