電気ケトルと時計の間に住む老婆が教えてくれた。「お前が眠っている間に雲 から女の腕が伸びてきて、窓をすり抜けてお前の顔に透明な手形をつけていっ たよ。その手形は洗っても落ちないだろう」 * * * 針女について語らなければならないだろうか。私が言えるのは彼女の舌、真っ 青なその上に無数の針が針山のように刺さっていることだけであって、それ以 外に関してははなはだ心許ない。自分ではもう喋ることのできない彼女の腐り 落ちた横顔を、風の中から拾い上げるだけ。ただそれだけの暗夜の鏡、濁った 忘れ沼の星明り。 * * * 台所の整理をすると黒い泥が詰まったビニール袋が出てきた。たぶん玉ねぎか 何かをしまったきりで、腐り果てて液状化したものなのだと思う。もし袋が破 れていれば大変なことになっていただろう。二重三重に包み直してゴミに出し たあとは、これも消費期限をやや過ぎたマカロニを茹でて食べることにする。 泥の詰まった袋がはるか彼方へ向けて運ばれていくことを考えながら、暗闇に 吊り下がる胃の重みをたしかに感じている。 * * * 川べりの遊水地に痩せた子供が十人ほど輪になって佇んでいる。どの子も下着 をつけただけの格好でじっと正面に顔を向けて、わずかに呼吸しているのが肩 の微細な上下で見て取れる。その輪の中に光の反射が導かれ、光に掠められた 子は苦悶の表情を浮かべてすうっと消えてしまう。少しの悲鳴も聞こえない。 土手の上から悪魔が手鏡を傾けて一幕を楽しんでいる。血の味の煙草を吸って 血の色の煙を吐く悪魔。 * * * 校庭のどこかに棺が埋めてあるらしい。まん丸な桃を齧りながら校長が教えて くれたが、僕たちはもっと詳しいことを知っている。棺の中には誰も入ってい ないのだ。海にさらわれて上がってこない校長を偲んで、教師連が生徒に秘密 で棺を埋めたのだと。まだ四十九日も済んでいない校長が嬉しそうにかぶりつ く桃の汁がたらたらと教室の床に滴って、甘ったるい香りが辺り一面に広がった。 * * * 山間の道はいつしか畳敷となり、やがて敷き詰められた布団の上を行くことに なった。枕やシーツに足を取られながら進むのはもはや森の細道ではなくしん しんと肌寒い屋内で、だだっ広く薄暗い中を手探り足探りで確かめるのは大層 恐ろしく心細かった。だが早くしなければ何もかも手遅れになってしまう。家 族がこの先で今にも牛鬼に食われようとしているのだ。もう食われて骨の山に なっているかもしれないのだ! * * * 雨風が強いので窓を開けられない。上昇しようとする室温を扇風機の羽でかき 混ぜて、今この時に頭上で輪を描く低気圧の巨大さを想像する。風が窓を揺ら し、壁は思い出したようにぴしぴしと鳴る。冷蔵庫のドリンクホルダーに挿さっ た牛乳パックの底に、冷たく青い犬の目が沈んでいるのを私は知っている。か すかに涙を流しながら身じろぎしているのを知っている。 * * * 夜の市街に赤い糸が絡みつく。ガソリンスタンドから交番へ、団地へ、駅へ。 ことさら明るい信号の数々を巻き込みながら。死も生も絡め取るこの無尽の 描線を爪でかきむしって、絶叫するものがある。赤い糸に包まれた街がさら に死に果てて生まれ変わる場所に向けて、喉を破り尽くして絶叫する天蓋の 下で、僕らは真っ赤に閉ざされた眠りを貪る。 * * * 真っ赤に閉ざされた眠りを貪る。その眠りを、彼女は眼球のない穴から覗い ている。泥の中で戯れる悪魔や子供たちに向けて、彼女は何かを言おうとし ている。針山のような舌で言おうとしている。 append 闇の中で燃える火よ。泣き疲れた女、マラルメよ。軌道の果てに行き着くこ とはないと正しく異なるステップで奏でた草花。夢から夢へと遍歴する、酩 酊ののちの酩酊、燃え尽きたページをめくる骨の手の群れ。僕らは死に次ぐ 死に飽き果てている。さらに夢見の果てにあるテラ・インコグニタ。闇の中 で血を吐く手紙、マラルメよ。月夜の月よ、花束よ。