幽霊の感触―即興詩の試み


幽霊に触ったことがある、と話してその日は家に帰った。心の隅にざわざわと
騒ぐものが現れて遅くまで眠れない。布団から起き出してコップに牛乳を注ぎ、
壁の前で飲み干す。一人で暮らしている私に触れる無数の干からびた手があり、
肩甲骨のあたりを優しく撫でている。


         * * *


南瓜を切ろうと包丁をぐっと押し込んだ拍子に刃で指を叩いてしまう。幸いに
も深い傷にはならずに絆創膏を貼ってことなきを得る。何日かはやはり不便だっ
た。怪我をしていることを忘れてドアノブを握ったりして不意に痛みが走る。
書く文字も虫のようになった。


         * * *


やり過ごせばいいと考えている。溜まった洗濯物をどうにか片付けて、先送り
にしていけばいい。その都度考えればいいと、今は楽な姿勢でいればいいのだ
と。窓から臨む限りのところに工場の煙突が伸びていて、晴れた日には空に放
出された蒸気が雲とゆるやかに繋がっている。


         * * *


博物館のエレベーターで上に運ばれる。その後しばらくして地下へ。構造の中
で身体が物体であることが意識される。ガラスケースの中の類人と目を合わせ
て、唇の端で薄く笑ってみる。展示標本の仔細を示したラベルを読むために身
を屈める。背中の骨が一斉に動く。


         * * *


地下鉄の出口ではいつも風に吹かれる。シャツの裾がはためいて、この時をい
つまでも残しておきたい。信号は赤から青へ。分岐から分岐へ。落ちるような
穴は見当たらない。地獄の入り口を象徴する巨人の大きな口、そんなものは存
在しない。


         * * *


遠くで自転車が滑ってこけたので走り寄っていく。声をかけてみるがそそくさ
と離れて見えなくなってしまった。その後はまた小銭を数えて鶏肉を買い、野
菜ジュースも買う。ハクビシンが電柱を器用に登るのを見かける。家に戻って
電気をつける瞬きの間に、影が逃げる。


         * * *


向かいのアパートにカーテンのかかっていない一室があり、部屋の中がよく見
える。家具は置いてなくてがらんとしている。誰も住んでいない。防犯上の仕
組みなのか決まって午後六時に明かりがついて、たぶん明け方まで。幽霊が幽
霊の家具を使って生活しているというわけでもなく。


         * * *


時計は壊れる。時間が止まって水槽の中での生活が始まる。廊下の電気は長い
ことちかちかと点滅しているのでもうじき暗闇になるだろう。首に髪を束ねた
ような黒い縄が巻きついている。野菜室では生ゴミが霜に覆われて干からびて
いる。腕が空中で揺れる。足が空中で揺れる。


         * * *


犬の尻尾が空から長く垂れ下がって動いているのをなんとか捕まえた。抜けて
しまわないのを確かめて思いきって体重をかける。地上にはメリーゴーランド
が回り、ピエロが風船を配っている。ピエロの風船が風に流される。風船には
ピエロの笑い顔が描かれている。


         * * *


幽霊に触ったことがある。小学校の六年生の時、夜眠れなくてベッドでごろご
ろしていると、全身が靄でできたような人影が部屋に入ってきた。そいつは寝
ている私に手を差し出した。不意のことだったので慌てて手を出して握り返し
てしまったその感触を、今でも憶えている。