小学校の桜にいつか辿り着く 吉田右門 学校前の坂を上っていくと コンクリートで固められた左手の斜面に ぴたりとはめ込まれた形の地蔵がいて 土の猛威を抑えているのか 背中を見送られる心持ちで ずいぶんとほっとした 昼の空は硬質の雲を隠し持ち いつでも流していけるんだぞと 大きな目玉を揺らしてうそぶく 町をつらぬく線路が 鉄橋を過ぎるときに立てる音も 秘められた合図のようだ それは誰に知られることもないが いつも耳の奥で鳴り続ける 花には花の 水には雨の言葉が混じっていて フェリーの行き交う藍色の水たまりが 山を映して黙っている様は かつて蓮の花にも喩えられたのだ
原っぱに出かけよう そこには盆の間にだけ 夏の人たちが見え隠れし 錆びついた刃物や 色とりどりの皿を持ち寄って 陽気な盆踊りを踊っている 音楽に誘われて 世間知らずの子供が迷い込み 消えてしまうなんてこともあるけれど そんなことは気にしない 朝はみな一斉に目を覚まし 心を弾ませて踊るのだ 暑い午後にはお茶やおにぎりもある 互いの格好なんて気にしない そもそも生きているのか死んでいるのか 互いに誰だか探ってはいけないし 知ってしまったら小さなきのこになって 味噌汁の具にされてしまうかも それはともかく 踊っていれば苦しさは吹き飛ぶし 互いの区別なんてつかないよ いま胸のあたりを包丁で突かれた あの人だって笑っているじゃないか 踊る人たちは汗を流し ぜえぜえふうふうと楽しそうだよ さあ音楽があるよ 酒もある みんなおもしろおかしく笑っているよ 夏の人たちは白い布を頭に被り 誰が踊っているかわからない ああ、肉と骨になって 原っぱでは踊りが続いているよ
ひじきを煮付けていて 鍋の中はまっくらやみ 向う側からぐいとつかむものがあり いやだいやだと言っているうちに 連れて行かれた海の底で おまえはうみうしになる 立派なうみうしになれてよかったと 家族は喜んでいるけれど ごまかされない きっと金持ちの慰みものにされ 死ぬまでひじきを食わされることになる 腹一杯につめこまれ 泣いても喚いても食わされて 体の内側からまっくらやみにされてしまう そうやってじわりじわりと 黒いあぶくを吐くだけの存在になる 風呂釜の底でわずかに身じろぎする どこの誰の生にも余計な 夜中の生き物になるだろう
遅く帰った家の 戸をからからと引いて 玄関先に靴が揃えられている その脇を通る 廊下にはぼんやりと俯き加減の 男や女が行き交っていて もうさすがに惑わされることはないが とうに慣れた今でも なんとはなしに気にかかる あるいは 些細なことを気にしている自分が変で 世間は気にしないのか 毎日たくさんの人とすれ違うが 十年もすればこの中の 何人かは生きるのをやめているだろう それが自分だとしてもおかしくないわけで いつか鏡にすら映らなくなる時が来る そこには誰かいたのかもしれず 初めから誰もいなかったのかもしれない 寝る前に洗面所で 丁寧に目玉を洗う人のことが 時々信じられなくなる
雲がすばやく流れている時は 家のほうが動いている気がする そう考えると足元がぐらついて ああでもないこうでもないと 心臓に暗い汁が溜まってきて 余計なことを考えないように 道の先だけ見ていればいいのに 水際に打ち捨てられた軽トラや ねぎ坊主だらけの畑が迫ってくる 今こうしているあいだにも 地面の下を虫けらが食い散らかし 舞台はずぶずぶと 土に沈んでしまわないか 誰かが糸を切り離して ころりと首が落ちてしまわないか 考えたところでどうしようもないが 一度気にすると心配は膨らむ 冷や汗を流して演技を続けると おまえが相手にしなければならないのは あっちだよと言われて 鬼の指差す暗がりに 柳の下の客席は人であふれ どの人もどの人も 火山灰で真っ白だ
奥は暗くておそろしければ… 和泉式部 ふいに戸を閉められて 暗い場所に置き去りにされてみれば 息をするのもままならず 手探りで進む手に 布がひらひらとまといつく 天井に着物でも吊るされているのか 探っても探っても壁はなく その果ては底知れず ただ衣ずれの中を進んでいく それが幾晩も続いて ついに耐え切れず 懐から取り出した火打ち石を 打ち鳴らすと 火花は空中にはじけ飛び 闇に一瞬だけ 無数の首が浮かび上がり 笑いや怒りを含んで 山頂のほうまで延々と 人の顔の連なりであった
かぶと虫になったわたしが
西日も射さない土間の隅で
瓷の縁に手をついて蜜を吸っている
惨めでたまらないのだけど
もうかぶと虫になってしまったのだから
ほかに手立てはないのだ
誰か大急ぎでやってきて
やめろと言ってくれたらいいのに
大きな漬物石をぶつけて
角を叩き折ってくれたらいい
そしたら喜んで縁日に出かけられる
古ぼけた瓷なんぞ放り出して
とろけたさぼてんみたいな蜜から逃れて
髪振り乱して遊びに行ける
ああ、しかしそうは言っても
祭りのにぎわいをあとにして
神社の裏手の森で
存分にくぬぎの汁も味わいたい
地下から汲み上げた
新鮮な飲料を飲み干したい
にんげんの心はほんとうにめんどうなんだ
ひんやりと冷たい瓷にしがみついて
六本足はわきわきとうごめき
一舐めごとに
虫の世が開けていく
化粧箱や封筒の 中には宝石があるものだと 女の子はそれくらい知っている 馬の形をした雲を追いかけて 知らない道を行くと その細道の先には橋が続いて 途中で別れの言葉を思い出して しゃくりあげて泣いてしまうことも 吹く風が頬に触れて あかるい午後が夜に向けて伸びていくことも 千匹の子鬼が髪にまぎれこんでいることも 足の下にある硬い地面が いにしえの気難しい生き物の背中で その上をよじ登っていく自分が 向こう岸に渡れないことも ぜんぶぜんぶ知っている わからないことがひとつもないように 強がっているだけなのも かなしい唄しか歌えないことも ぜんぶ